(未定)

R.Kのイニシャルに心当たりがある人、人生気にしたら負けだって感じの人だけ読んでください。責任は負いません

落ちてくる

 杞憂。
 嘗ての杞の国の人が、天地が崩れ落ちることを危惧し憂えたことから付いた、無駄な心配を表す故事成語
 詰まる所、取り越し苦労。
 徒に生じた疑心暗鬼。
 徒爾に終った内憂外患。
 勿論、落ちてくることは無かった。
 彼の心配は空しくものだった。
 しかし彼はさぞ不安だったことだろう。頭上の広大で甚大なあの塊が落ちて来たら。砕けて割れて降って来たら。
 どうすることも出来ないし、どうにも出来る筈が無い。
 空が落ちてくるのだから。嘗ての青い薔薇のように有り得ることのないばかりに、一生その暗鬼が去ることはない。

 この故事が生まれ語られ早千年。僕──瑞樹瀧哉(みずきそうや)は、愚かで偉大な先人に対し、少し見る目を変え同情することとなった。
 ここまで来れば、貴方はもう展開が読めているかもしれない。

 そう、空が落ちてきた。

 事の発端はアフリカ大陸中央部以南──奇しくも人類が誕生したと言われる始まりの地。
 まるで歴史を追うように。
 順に汚れが拭き取られていくように。
 終わりが始まった。


「なあ、瀧哉。ブラックホールの中心部がどうなってるか知ってるか?」
「えっと、真珠みたいに層が微かに分かれてるんだよね?前ニュースで見たよー」
「ちぇー、やっぱ知ってたかー…さっすがソーヤ」
「んー、でもこれ話題になったの五日ぐらい前だよ?」
「え、マジかよ。俺昨日知ったぞ?」
「まぁ、新聞は正確な分、メルマガの速報には早さで劣るからねぇ…」
 話しかけてきたのは、幼稚園からの縁で、一番仲の深い同級生の|堂通武(たかどののぶいさ)。『瑞樹堂』なんて名義で悪戯なんかをしていた。本人は自分の名前を余り気に入っておらず、彼と親しい同級生は専らトムと呼んでいる。つるむことの多い僕の名の対称として、『トム・ソーヤの冒険』に肖っているのだ。無理があると思うかもしれないが、多少無理があっても語呂とキャッチーさが重視されてしまうのが世の常と云うものだ。多分。僕は、このネーミングは満更でもない。「都会」ならぬ「二十二世紀のトム・ソーヤ」としておちょくられるのも、これまたキャラ付けに繋がっている訳だ。
「あ、でもこりゃぁ間違いなく今ホットな話題だな」
勿体ぶった様子で、トムは意地の悪そうな笑みを湛える。
「空が落ちてきたらしいぜ」

 彼が携帯電話に保存していた報道番組を見せてもらった。暑く化粧したニュースキャスターが、神妙な面持ちで台本を読み上げる。
『近頃アフリカ大陸のサハラ砂漠以南で、「人が見えなくなった」という通報が相次いでいるようです』
『ある時刻より、人間が透明化し見えなくなるという現象が確認されており、ダニエル・スミスタンザニア大統領は、「史上類を見ない極めて厄介な現象であり、早急な対策を検討している」と表明し、原因究明を急ぐとしました』
『現地の人々の中には、「空が落ちてきたのだ」と主張する人もいるそうです』
『また、この被害は人には限らずに、無生物にも影響が及ぶようです』
『バス停の看板や、家屋の壁等の例が多く、一度透明になった後、次第に影のように黒ずんでいく様子が確認されています』
 どうやら被害はそこそこに大きいようだ。意味も無く、時期外れの寒蝉が静かに鳴いていたことを思い出した。虫の骸に集る蟻は、そう言えば姿を見せていない。

 学校に着くと、いつも騒々しい同窓生が、更に煩さを増して話し込んでいた。その輪の一人が僕たちを見つけ、手招きする。トムが駆け寄り、話しかけた。
「よぉ、お前らもおアフリカの話題で持ち切りかよ?」
「いーや、今や阿弗利加だけじゃあ無いぜ」
少し気障な級友が指を振った。
「被害は中東に伝播しているんだ」
そのまま彼、啓都(けいと)は流暢に話し始める。
「猿人──所謂サヘラントロプス・チャデンシスが誕生して約700万年。その240万年後に生まれたラミダス猿人からほぼ完全に類人猿と分化したヒトは、そのまた60万年の時を経て中東に移住した。──ここまでは良いな?」
「待って理解が追い付かないよ」
何でそんなに舌を噛みそうな単語を滔々と言えるんだよ。
「おや、君らしくないね。社会は得意だろうに」
「確かに一学期に習ったけどさ。教科書にはアウストラロピテクス群のことぐらいしか書いてなかったじゃん?」
あんたがおかしいんだよ。
「何だ。知っているじゃないか」
話が逸れた。
「…それで、ラミダスさんがどうしたってんだ?そいつはご飯をちゃんと食べられたのか?」解ってるのか解ってないのか判らないトムが質問した。勉強が苦手なトムは、可哀想に眉間を押さえて、唸っている。知恵熱で倒れられても目覚めが悪いので、次を促す。
「単純なことさ。その中東でも被害が出ているというだけのこと。まぁ、このことと人類の移動の関連性はまだ証明もされてないんだけどね」
「…その説が正しいとすれば?」朝の会が近いことを告げるチャイムを聞き流しながら、恐る恐る訊く。あるわけがないが、僕が訊くことで運命が決まってしまいそうな気がして少し躊躇った。
「原人と新人の移動ルートは異なる。時代の早い原人ルートを辿ると、今から160万年前に南アジア、80万年前には西欧に逢着するんだ」
「被害は地中海やインドにも及ぶ、と?」
「あくまでもしがない一中学生の一仮説だけどね。具体的には、その通りだろうよ」
 生徒が三々五々と席に着き、担任が教壇に立った。
「皆元気だな?……よし。もう知ってる人も多いと思うが、今外国が大変なことになっているようだぞ」
アフリカだとか中東とかではなく、外国、か。何か変化か。
「人間や物が透明化する異変が起きていてな。アフリカのことは知ってるだろうが、インド周辺も大変らしい。先生も今朝会で聞いたばかりなんだが、人口が最も多い分、被害件数も多いようだ」
「やっぱりか」思わず呟いた。
「ん?どうした瑞樹」
「あ、いや何でもないです」
「そうか。まだ情報が少ないが、知らせが入り次第教えよう。じゃあまた社会の時間な」湿った風が吹き、木の葉を散らして行った。遠くの空に、雨雲が立ち込める。

「いやはや、アメリカのコールセンターが心配だねぇ」啓都がニヤニヤと笑う。何処と無くこと事態を面白がっているように見える。少なくとも心配はしてない顔だ。
「なんでインドがやられてアメリカが困るんだ?」こちらは理解をしていない顔だ。啓都が簡単に説明すると、「そうか、インドは夜のアメリカなの、か……?」と独り言ちた。暫くそっとしておこう。兎も角信じたくは無いが、|啓都(こいつ)の仮説は概ね正しいのだろう。その証拠に、その後もほぼ啓都の予想通りのことが起きていった。

 社会の時間に、担任が
ギリシャで大混乱が起きているそうだ」

 翌朝、トムが
「“取る米にスタン„がやられたらしいぜ」

 五日後、啓都が
「いやぁ、酷いね。地中海沿岸はジュラシックパークさ」

 一週間後、ニュースで
『昨日、中華人民社会共和国内で初めての被害が確認されました。SNSでは、嘆きと緊張の声が挙がっています…』

 そして、二週間後。
 日本では────何も、起きなかった。
 驚嘆、と言うよりかは瓢箪から王将が躍り出てきたような気分だ。
 何故日本には来なかったのだろう。
 何故中国で留まったのだろう。
 トムが携帯電話を操作しながら言った。
「人が透明化すると、次第に他人に忘れられていくらしいな。……おぉ、チュイッターだと、『鎖国復活(笑)』なんて言われてるぞ」
鎖国かー、成る程ね」
だが実際には、完全には封鎖されてはいなかった筈だ。
「その通りさ。松前対馬・出島・薩摩の『四つの口』がぱっくりだったからね。情報も黒砂糖も取り放題さ」
「心読まないでよ怖い」
喋り放題の啓都(こいつ)も大分駄目だと思うんだけどな。調子の良い彼は、お構い無しに僕も思っていたことを口にしていく。
「そう、何より憂えてしまうのが……
「文明開化と云う、行き過ぎた白昼夢。
「今燻っているだけならば───
「いつか必ず、大波が来るさ。
「類い稀なる、未曾有の悪夢となってね」

 そのまま何も起きずに更に三日。トム名付けて“崩天異変”の騒ぎが少し風化した頃。校則違反の筈の携帯操作も気怠げに、トムが呟いた。
「アフリカの少数民族の土着宗教の一つの口伝の中に、予言したかのような部分があるらしいな。

 ──神は人間を作り出した後、気紛れでその人間のほぼ全てを天変地異を起こし殺戮し、別の人間と入れ替えた。その人間が私達であり、神は再び天変地異を起こし人間を選別する。

……だってよ」
「中々にふざけてるね、神様とやらは。人間はレゴブロックかい」
「欲求の塊(エゴ・ブロック)だろ」
「あ、そう……」
それにしても、何の為に。誰の為に。
その時、窓際で悲鳴が上がった。何事かと集った野次馬が、一同皆して愕然とする。がやがやと顔を互いに見合せ、何かを囁き合う。僕は敢えて見に行かなかった。被害なんて、わかりきっていたことだ。読み残していた小説を読む。しかし戻って来たトムに肩を掴まれた。いつに無く真剣な顔だ。
「何でもいいから来い」「……わかった」
外を見て、思わず膝から崩れ落ちそうになった。
朧のように歪み、闇に崩れていくのは、僕の家だった。

「お……父さん……お、母、さん……」
信じられ無かった。
信じたく無かった。
でも信じる他無かった。
信じるべき事実だった。まごうことなき真実だった。
僕が十年と少し過ごした我が家は、幾分と経たぬうちに暗闇の塊と成り果てた。
「今夜から、当分は俺んちに居ろよ」
「良い…の?」
「イイもマンマもあるかよ。お前は困ってて、俺はお前の友達なんだよ」
「助かるよ」
 トムのお母さんは、否お母さんも、優しくしてくれた。
僕を元気付ける為に、たっぷりの夕飯と温かい励ましをくれた。宿題と二人向けのゲームをして、夜はトムの部屋の畳に雑魚寝の丸寝をした。大切な人を失った筈なのに、虚しさが紛れていくような、何かが満ち足りていくような気分だった。

 朝起きると、既に一人だった。ランニングの習慣でもあるのだろうか。少し伸びをして、制服に着替えリビングに向かう。一人分の朝食が置いてあった。トムのお母さんが、流しに一人立っていた。
「お、おはようございます」
「あら、瀧哉君おはよう。制服に着替えてるけど、今日は休んでもいいんだよ?」
「え……何が、ですか?」
「瀧哉こそどうしたの、敬語なんか使っちゃって。まだ熱の影響があるのかな……?」
心の中に、黒い滴が垂れたように感じた。トムのお母さん───の筈のこのひ人と言ってる事がどうも噛み合わない。
「昨日は、けっこう高い熱に魘されてたよ?最近体調も悪かったし、無理し過ぎてるんじゃないの?」
「と……と、トムは?トムは何処ですか?」
「トムって、どなた?」
「え?」
嘘だろ。
「達武ですよ。堂達武。僕とは幼稚園児のときからの仲です……つか、貴女の子供ですよ」
「何を寝惚けてるの。お母さんの子供は堂瀧哉、あなた一人だって」
「何で。」
冗談だろ。
「き、昨日だって!僕はトムとご飯食べて、ゲームして、同じ部屋で雑魚寝したんですよ!」
「……可哀想に」
「……え?」
「夢を、見ているのね」
「夢って」
「トムって……あなたが考えた「幻」でしょう?」
脳髄を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
「い、いや、そんなことは」
そんな筈は、無いだろう。そんな筈が、無いだろう。
「ねぇいい加減にしなさいよ!さっきから聞いていれば!何なの、ねぇ何なの!?私はたった一人あなたを、たった一人で育ててきたの!何、トムって!ふざけてるの?夢想も妄想も大概にしなさいよ!
……これが、現実なの!」
「違う!そうじゃない!何かが違う!」
理想でもないけど。
「これが、事実なの!」
「違う。無根だよ」
「……これは、真実なんだって」
「違う。虚無だ。霞だ。嘘だ」
縺れた何かが、解けていく。脆く崩れていく。壊れていく。
解けないでくれ。崩れないでくれ。壊れないでくれ。
消えないでくれ。戻ってくれ。早く、帰って来てくれ。
でも、もう駄目だ。もう無駄だ。もう無理だ。
手が震える。身体が震える。我慢出来なくなって、その場から駆け出した。
「ねぇ、待ちなさいよ!」
「来るな!来んじゃねぇよ!」
「何でよ!」
「どうせ僕も忘れるんだろう!消すんだろう!ならもう、今、忘れてくれよ!消せよ!苦楚がよ!」
「ねぇ、瀧哉。よく聴いて。トム君のことを否定したのは謝る。本当にごめんなさい。……それでね瀧哉。あなたは、私の、大切な家族なの。子供として大切に育てると決めたの。私が決めたの。お願いだから、戻って。落ち着いて。」
目には、涙が浮かんでいた。僕は怯んで、戦いた。本当はこれでいいんじゃないかと、本気で思った。
一瞬だけ。
だけど、もう遅い。遅かった
「ありがとう」
「あぁ、戻ってくれる?」
「でもごめんなさい
「もう駄目だよ」
戸を蹴破り、道路に飛び出し駆けた。
嫌だ忘れたくない。あいつのこと、まだ覚えていたい。一生覚えていたい。失いたくない。捨てたくない。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
現実から逃走して、
滅茶苦茶に壊走して、
意思も意識も迷走した。
脚が縺れ、窪みに引っ掛かり盛大に転んだ。
顔上げると、黒い塊が浮かんでいた。かつての僕の家だった。誰もいない中朝日に照らされる底無しの闇が、とても魅惑的に見えた。一歩近付くと、声が聞こえた。
『こっち来いよ。』
あいつの声だ。僕は形振り構わずに、懐かしい我が家の残骸に、
 今、行くよ。
足を踏み入れ────




─────あれ、あいつの名前って、何だっけ。